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鴨居羊子

鴨居羊子

鴨居羊子プロフィール

 

日本の女性の下着に革命を起こし、
女性自身が楽しむファッションとしての
下着文化を創造した鴨居羊子

 

 

なにかを創造する立場になりたい…

 

“想像もできないくらい飛んでる女性”──鴨居羊子はまさにそんな女性でした。

 

1925年、大阪府豊中市生まれ。20才頃に美術家を志望し、父親の影響で25才のときに新聞記者になりました。その後「なにかを創造する立場になりたい」といって新聞記者を辞め、下着デザイナーへと転身を図りました。

 

なぜ下着だったのか…。

 

特に洋裁が得意だったわけではないことは確かです。むしろまったく知らない世界だった!? しかし羊子は、女性の衣服の中で下着がもっとも遅れていると感じていたらしく、なにかを創造・表現する場所を下着に求めたようです。

 

羊子は当時のことを『下着ぶんか論』(1958年発行)の中でこう語っています。
「私は洋裁学校にも行ったことがないし、裁断も縫うこともしらない。それなのに下着をつくろうというのは、ずいぶん心臓のつよい話だった」

「私は縫うことはしらないが、造形の勉強をしていた。そしてなまじ裁断をしたない方が、それらの法則や習慣をとびこえて不可能なことにいどんでみることに勇気がわいてくるだろうと思った」

「それにしばられるより、知らぬことを利用して思いきり自由な法則をつくりだそう」

 

 

一人の女性が日本の下着を変えた

 

1950年代、戦後の復興とともに衣服の洋装化がどんどん進んでいました。しかし下着についてはズロースや肌着があるぐらい。色もメリヤスの白しかなく、女性の洋服用の下着はまだないに等しいという時代でした。国産のコルセットやブラジャーが出始めたものの、それは体型を補正する“締め具”としての下着で、付けにくく窮屈なものでした。

 

そんな時代に羊子は、下着のデザイン・制作会社「チュニック」を設立。斬新なカラー下着や柄物の下着、レースや刺繍をふんだんにあしらった下着、ナイロン素材のスキャンティや透け感のあるスリップ、ガーターベルトなどセクシーな下着を自らデザインし世に送り出しました。さらに当時では考えられなかった下着の個展やショウを開催したり、ミュージカルや映画を制作するなど、社会にセンセーションを巻き起こしました。

 

当然、世間は非難ごうごう。羊子が創り出したスキャンティはまさにスキャンダルを生み出したのでした。

 

「下着は白色にかぎる──ときめこんだり、ひと目につかぬようにと思ったり、チャームな下着は背徳的だと考えたり、とかく清教徒的な見方が今までの下着を支配してきたようです。私はこうした考え方に抵抗しながら、情緒的で機能的なデザイン、合理的カッティング…などをテーマに制作してみました」
 

羊子のこの言葉は、当時の熱い思いをよく表しています。

 

 

エッセイや絵画にも非凡な才能を発揮

 

下着を創造するかたわら、羊子はフラメンコを習いに行ったり、美味しいものづくりを研究したり、野良犬や野良猫を家に招いたり、さらには「少しでもライオンの気持ちをわかりたい」といって髪の毛を金色に染めたり(昭和30年代で!)、世界各地を旅行するなど、自由奔放な生活を送っていました。そんな日常をエッセイにまとめ、数多くの作品を残しています。

 

また30代の後半からは絵画にも集中するようになり、何度も個展を開いています。ちなみに羊子の弟は画家の鴨居玲。その他、人形の制作、バッグやポーチの制作と、羊子の創造活動は1991年に亡くなるまでとどまることを知りませんでした。


「人間として自分らしく生きる」を実践した女性

 

「日本の女性の下着に革命を起こした女性」

 

「下着を通じて女性解放運動を進めた人」

 

などさまざまな形容詞が羊子を飾っています。

 

今でこそ女性の社会進出は珍しいことではなくなりましたが、男尊女卑の風習が色濃く残っていた当時の日本社会で、女性が一つのことを成し遂げるのは簡単なことではなかったはず。

 

それを支えたのは「人間として自分らしく生きる」ということ。

 

そんな鴨居羊子の生涯に、生きるエナジーを感じずにはいられません。
 

 

 

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